行為の積み重ね。それが人生をつくっていく。この行為には質を伴っている場合とそうではない場合がある。では行為の質とは何か。それは行為に付随した「神と共に在る」という充足した平安な思いだ。
電車の前面の座席で、イライラした面持ちで何回も腕時計を見ている若い男性を見かけたことがある。約束した時間に到着できないのではないか不安なのだろう。どんなにあせっても、電車はスピードを上げてくれるわけではない。であるのなら目的の駅に着くまでは、ゆったりとくつろいで座っていてもよいのだが。 別に彼は異常な人物であるわけではない。このようなことは、誰にもあることであろう。
どんな行為にも目的がある。この若い男性が電車に乗ったのは、商談、あるいはデートのためであったかもしれない。いずれにしても目的なしに電車に乗る人はいない。
行為の目的のみに目が行ってしまい、今この時に充足していない時、その行為には質が伴わない。 充足には充息という字を当ててもよい。いつも将来に目を奪われて、今というと時に神を感じて生きていないと、地に足がつかず、息も浅くなる。充足している時には、息も落ち着いて深いものとなっている。
今この時に充足(充息)するとは、大霊の一部である自分(神の子としての自分)を感じ、大霊の愛に包まれていることを感じて在ることである。この思いに満たされて行為をする時、その行為には質が伴う。 湯船に浸かって南無阿弥、布団に入って南無阿弥陀仏と、いつも念仏を称えている老僧を私は知っている。この老僧は、極楽に往生することを祈って称念しているのだろうと思っていたら、そうではなかった。今この時、如来の慈悲に包まれて在ることに充足し、感謝して念仏を称えていたのだった。 この老僧の行為には、座布団を日干しするときにも、「今日も暑くなりそうだね」という日常の挨拶にも、さらにはトイレに急ぐときにも、質が伴っている。
彼は紫の衣を着るような高僧ではない。小さな寺の住職をし、つつましやかな生活を送っている。しかしこの老僧には、多くの人が品格といったものを感じている。質の伴った行為をしている人には、おのずと品格が備わってくるものだ。
「いろは歌」を知らない日本人はまずいないだろう。習字の際に書いた方もあると思うが、実はこの歌はスピリチュアルな歌なのだ。この歌は「行為に質を伴わせよう」と言っているのだ。
有為の奥山 今日越えて 浅き夢みじ 酔ひもせず これがこの歌の後半である。その意味は次のようなものだ。 絶え間なく変化する寄る辺ない現象界を超えて、夢を見たり酔っぱらったりするような生き方はすまい。
この世(現象界)にあって「夢を見る」とか「酔っぱらう」というのは、この世限りの地位とか名誉とか金銭にしがみつき囚われるということである。人はこの世がすべてであると思い込んでいると物質的なものに囚われてしまう。
この歌は、言外に「この世」を超えた「あの世」、すなわちスピリチュアルな世界があることを匂わせている。
このスピリチュアルな世界に目覚めたとき、人は、はじめて私たちを慈しんでいる神の存在に気づくのだ。そして質の伴った行動をとることができるようになるのだ。