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Channel: 芸術家く〜まん843
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「最近あったこと」小島養厳

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コックリさんが危険な遊びであることを読者はよくご存じであろう。
安易な気持ちで霊的なことに関わると、とんでもないことになる。   これは、コックリさんのような子どもの遊びにかぎったことではない。
立派な大人が霊的な会に入会して、精神に異常をきたした例を私は見てきている。
会員のみならず、霊的団体の主催者にも問題のある人が多いようだ。
自分は高次の霊的世界とつながっていると主張しているのにもかかわらず、権力欲や金銭欲が強く、他の団体やその主催者に攻撃的な言動をとるリーダーが少なからず存在する。
多くの場合、霊的団体の主催者は、同種の他団体と手を取り合うことをしようとはせず、主催者どうしの仲は良くない。
ワンネスの世界を説きながら、他者を排斥し頂点に立とうとする霊的世界のリーダーを、私は「霊的な物質主義者」と呼んでいる。
今、私の身近にミーディアム(霊媒)としての資質をもった若者、N君がいる。 
霊的な能力がある者が人格者であるとはかぎらない。
むしろそうでないことが多い。
N君は、恋をすることもあれば落ち込むこともある普通の青年である。
彼は理系の大学院で研究をしてきた学究で、スピリチュアリズムについての知識は、現時点では皆無に等しい。
N君は、決してみずから望んで、多くの危険が潜む霊的な世界と関わりをもつようになったわけではない。
友人の死がきっかけとなって、霊的な能力が顕在化したのである。
科学者である彼は、このことで一時期かなり混乱していた。
その彼の伴走者であることが今、私に課せられているようだ。
精神と霊的知識の両面で彼をサポートできればと思っている。 
N君を育成して霊的な団体を立ち上げることは可能かもしれない。
だがそれは、私にとっては、まったく関心がないことである。
霊的な物質主義者の末路が哀れなことはよく知っている。
霊的真理の普及、啓蒙とスピリチュアリズムを教育の場に生かしていくこと。
それのみが私の関心事である。
微力ではあるが今後も江原氏を応援し続け、多くの方たちと霊的な学びを分かち合うことを喜びとして生きたい。
さて、N君と霊的な世界を学んでいくなかで、最近こんなことがあった。
ある日の夕刻、N君から「どうも心身の具合がよくないので、自分にまとわりつくものを切ってくれませんか」という依頼があった。
彼と私は同じ学校に勤務している。
その日の夜、仕事を終えたN君と私は、茶道部が使う和室で向かい合っていた。
先にN君の伴走者となるとかサポートをするなどと立派そうなことを書いたが、私は特別な霊的能力や技術をもっているわけではない。
霊的な知識はあるものの、実際はまことに心許ない伴走者なのである。
とは言うものの手をこまねいている場合ではない。
まずは観音経を唱えてみた。  だが、N君に変化はない。
しばし思いあぐねたのち、私は、不動尊の真言を唱え、九字を切った(真言や九字とはいかなるものか、ご存じない方もあるかと思うが、それは話の本筋とは外れるので、説明は割愛させていただく)。
命がけといったら大袈裟だが、かなり真剣にこれを行った。
その結果、N君はどうなったか。  「おかげさまで、心身ともにスッキリとしました」ということになれば、その場で「めでたしめでたし」ということになったのだが、そうはならなかった。
「下半身はまだ冷たいんですが、両腕のなかに何か気を感じます」。
そう言って彼は「前へならえ」のかたちに両腕を上げ、その間に片手を入れてみるよう私に告げた。手を入れてみると確かに何か温かいもやもやとしたものを感じる。だがそれだけのことで、大きな変化はない。
「少し楽になった気がします」とN君は言うが、まだ体は軽やかではないようであった。
その後、二人で校門を出たが、N君の身体は重いようであった。
帰路、四つ角を右に曲がればすぐ駅に出るという地点でのことである。
彼は右折せずまっすぐ歩いていく。
「どうしたの」と聞くと、「わかりません」と言う。
どうやら上の存在(心霊研究の世界では指導霊を「背後の存在」と表現することがあるが、N君は「上の存在」と表現している)に導かれているようだ。
目的地がどこだかN君も分かっていない。
しょうがないので私は「お互い明日も朝が早いというのに、まいったなあ」などと言いながら、彼の行きたい方向に肩を並べて歩いた。
周囲は古い家が密集する昔からの住宅地で、二人ともよく知らない地域である。
いくつかの角を曲がり、7,8分歩くと、彼は「はい、ここが終点のようです」と言う。
ふと右横を見ると、人家の庭に地蔵尊が祀られているのがフェンス越しに見えた。
むろんN君は、そこに地蔵尊が在ることを知っていたわけではない。
彼はその地蔵尊にしばらく手を合わせたあと、「これで終わりです。帰りましょう」といって、駅に向かい始めた。
手を合わせたあとのN君の足取りは、行きとは打って変わって軽やかだった。
駅に着くと、違う方向に帰る二人は、電車が来るまで改札口で立ち話をした。
「いったい、この夜の散歩は何だったの」と私が聞くと、N君は何と答えてよいのかよく分からないようだったが、しばらくして、「あっ、そうだったのか」と声を発し、次のようなことを語った。
「どうやら、私に憑いていた霊をお不動さまが縛り、その縛られて動けなくなった霊を、お地蔵さまにお預けしてきたようです。お不動さまやお地蔵さまって、それぞれ違った役割を持っているんですね」。
後でN君に聞くと、道中、罪人が逃げられないように荒縄で両手首と腰をぐるぐる巻きにして縛られ、縄で引かれていく感じがしたという。
もちろん実際に縛られているのはN君ではなく、彼に憑依している霊なのであるが、その霊が罪人だというわけではない。
しっかり捕らえておかないと、どっちの方向へ逃げ出すかわからないので、不動尊と呼ばれる霊的存在はそのような措置をとったらしい。
それは、嫌がる牛を縄でくくり付けて、ひっぱっていく感じであったという。
仏教について知識をもっていない彼がこのようなことを言うので私は驚いた。
古来より真言・天台の密教には「不動金縛り法」とか「不動霊縛法」と言われる法が伝わっており、不動尊は未浄化の霊を縛る強いパワーをもった存在とされているのだ。 
また、地蔵尊は、幽界下層部(仏教では地獄界、畜生界、修羅界、などと呼ばれている)を巡り、苦しみの中で混乱している霊を救う存在とされている。
仏教を知らない彼の語ることは、仏教の世界の理にかなっていたのである。
ただ、ここで誤解しないでいただきたいのだが、私は、仏教が素晴らしいとか、仏教のみが霊を救えるといったことを主張しようとしているのではない。
仏教が成立する遥か以前から霊界は存在していた。
仏教では、力強く未浄化霊を叱咤し導く高級霊を不動尊と名付け、優しく慈愛で包んで未浄化霊を癒し導く高級霊を地蔵尊と名付けているというだけのことなのだ。
不動尊や地蔵尊と同じ働きをする高級霊は、外国では別の名で呼ばれているはずである。
仏が多様であるのに対して、キリスト教の神は一神のみであるが、キリスト教圏にあっては、高級霊は、守護天使とか守護聖人といった存在として崇められていると考えられる。
この国の霊は、だいたい、お経はありがたいものだと思っている。
また私は江原氏から、私の背後には仏教に深いかかわりのある霊団が働いていると告げられており、私自身も仏教に親しんできた。
そういった文化的背景と個人的な理由で仏教的な法を修したにすぎない。
このようなことを言うと仏教の僧侶方から叱られそうだが、本当は、かたちはどうでもよいのだ。
厳密な作法にこだわらなくともOKなのである。
大切なのは、どれだけ心を込めて、ぶれずに強く高級霊に祈ることができたかどうかだけなのである。
最近N君は、みずからに関わってこようとする未浄化霊に翻弄されないように意識を保つことができるようになってきているが、いずれにしても霊的な世界と関わるというのは、いろいろな意味で大変な仕事である。
私は江原氏の仕事を身近で見てきているので、このことを身に沁みて感じている。
N君はまだ、この世界ではヒヨコである。
この道をどのように進むのかも定かではないが、もし彼のような若者の伴走をすることを霊界が私に求めているなら、謹んでその役目をお受けしたいと思っている。

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