フジテレビをはじめ、全国約30のFNS系列局の中で、年に1度、優秀なアナウンサーに贈られる「FNSアナウンス大賞」。
第13回大会で、その頂点に立つグランプリに輝いたのが菅原美千子さんです。
入社当初は、右も左も分からず、失敗を繰り返していた菅原さんはいかにして仕事の基本を体得していったのか——。
フジテレビをはじめとするFNS系列各局の中で、年に一度優秀なアナウンサーに対して与えられるFNSアナウンス大賞。
その頂点であるグランプリを私が受賞したのは、1997年、27歳の時でした。
青森の片田舎に生まれ育ち、小さい頃からテレビに映る気品の高いアナウンサーに
憧れてきた私にとって、日本一に輝いたことはこの上ない喜びでした。
なぜ私がグランプリを手にすることができたのか。
それは多くの方々に愛され、救われてきたからに他なりません。
もともとは単なる憧れにすぎなかったアナウンサー。
その道を本格的に目指すようになったのは
大学生の時でした。
「私の仕事は世界が大転換するような歴史的瞬間に立ち会うことができる魅力的な仕事だ」
ある日、ニュースキャスターの筑紫哲也さんのこの言葉と出逢い、自分もそのような意義深い仕事がしたい、報道の世界に身を置きたいと感じたのです。
非常に狭き門でしたが、何とか仙台放送に採用していただき、アナウンサーとしてのスタートを切ることができました。
ところが、です。
そこからが試練の始まりでした。
入社1か月目、初めてお花見中継のリポーターを担当した時のこと。
「うわ~、美味しそうなお弁当ですね。これはお母さんが作られたんですか?」
「こちらの公園には毎年いらっしゃるんですか?」
私の問い掛けに対して、相手から返ってくる答えは、
「はい、そうです」
のひと言だけ。
場を盛り上げることが全くできない。
焦れば焦るほど、気持ちは空回りし、挙げ句の果てには自分一人で喋り続けてしまう始末。
当然、アナウンス部長から大目玉を食らいました。
「花見客にインタビューしに行っているのに、おまえがほとんど喋ってどうするんだ!何がダメだったのかよく考えろ」
私は泣きながらVTRを何度も見返しました。
自分自身と向き合う中で、アナウンサーとしてうまく喋らなきゃいけないという思いが先行し、相手に自由に話していただくという視点が全く欠如していたことに気づかされました。
その後も数多くの失敗を繰り返し、そのたびに泣きながらも仕事に体当たりしていったように思います。
綺麗な言葉で滑舌よく話せるだけでは半人前。
話を聴くプロになって初めて、アナウンサーとして務まる。
仕事の基本は「相手の立場に立つ」——。
その重要性に気づいた時から、徐々に仕事がうまく回るようになっていったのです。
アナウンサー業も板についてきた入社5年目。
ある日突然、辞令が下りました。
「アナウンス部と報道部を兼務するように」
不本意でした。
たしかに現場を回って取材をする報道記者の仕事は好んでいました。
しかし、アナウンサーとしての仕事が半減してしまうことが耐えられなかったのです。
実際、辞令から半年後にそれまで担当していたニュース番組を降板し、レギュラー番組もゼロに。
「こんなはずじゃ……」
私はショックのあまり、眠れぬ日々が続きました。
会社を辞めることも考えました。
まさにどん底です。
『致知』2014年10月号より