「星の王子様」の中で王子様がこんなことを言っている。「ほんとうに大切なものは目に見えないんだよ」。物質中心主義の生き方を変えたいと思っている人にとっては、胸を打たれる言葉であろう。本当に大切なもの。それをひと言で言えば「愛」ということになるだろう。「愛」はさまざまに定義されるが、その中には、霊的真理に照らし合わせてみると誤ったものも少なくない。親が子どもに向かって「おまえのことを愛しているから言っているのに、どうして分からないの」と言うことがあるが、その愛が親の「子どもを自分の思い通りにしたい」といったエゴから出ているというのはよくあることだ。私の身近にかなり念の強い老婦人がいる。息子のM氏は50代で独身だが、母の念によって様々な窮地を脱してきている。M氏が第一志望の大学を受験した日、彼の母は、彼が試験問題と格闘している時間中、ずっと仏壇の前で、合格を祈念していたという。第一志望の国立大学は彼にとって難関校であったが、試験問題に向き合うと、なにか大きな力に後押しされている気がし、難しい問題の答えがひらめくということもあって、無事、合格したという。このとき、霊的な感受性のあるM氏の姉は、仏壇の前に座す母の後ろ姿を見て、母が強い念を発しているのを感じていた。これを「M氏は母の愛によって守られている」と表現することもできよう。だが、わたしはこのように表現することをためらう。物事を成就させようとするなら、強いぶれない念(思い)を持つことが肝要だ。だが念は諸刃の剣である。この母親は息子を思うあまり、息子に敵対する人物を念の力で傷つけたこともあったかもしれない。人の思いには霊が感応する。明るく澄んだ思いには高級霊が感応し、暗く濁った思いには低級霊が感応する。念の強い人は、このことを肝に銘じなくてはいけない。念が強いがいために、かえって悪しきカルマをつくってしまうというのは、よくあることなのだ。子どもの受験に際しては、私は次のように神に祈ることを奨めている。「この子を社会に役立つ有為な人材に育てます。この学校に入ることが社会とこの子にとってよきことであるなら、お導きください。ありがとうございます」。別にこの言葉どおり言上する必要はない。「社会へ貢献させます」「この子を生かすことができるのでしたなら」という思いと「神への敬いと感謝」があればよいのだ。なお付け加えておくと、M氏の母親は先祖霊に向かって祈っていたわけではないという。仏壇の前というのは、聖なる場所であるということから選んだのであり、いわゆる神仏に向かって祈っていたようだ。先祖霊とは感謝し浄化を祈念する存在で、現世的な利益を祈念する対象ではない。このことを蛇足ながら申し添えておく。M氏の母親が「他の子はどうなろうとかまわない」とまでは思わないまでも、自分の息子の合格のみに思いを向けていたのだとしたら、その念に感応したのは高次の神霊ではない。現世的な祈りにすぐに応えてくれるのは低級霊なのだ。この低級霊を霊験あらたかな神様として崇め、信仰している人も多い。「ほんとうに大切なものは目に見えない」というのは、そのとおりであると思うが、「ほんとうに恐ろしいものも目には見えない」と私は感じている。大切なものと恐ろしいもの。それは念という名のコインの裏表である。大我より発した愛念は、人をも自分をも生かすが、小我から発した悪念、邪念は、最終的には人をも自分をも傷つけ、殺すことになるのだ。だが、愛念と悪念については、明確に区別することは難しい。愛念の中に悪念が潜んでいることもあれば、その逆もありうる。念の質というのは、白か黒か截然(せつぜん)と区別できるものではなくグラデーションなのだ。M氏の母親も白であったり黒であったり、あるいはそのどちらかの方向に近いグレーの念を出したりしながら日々を過ごしているのだと思う。彼女は、感謝しつつ穏やかな晩年を送っているので、限りなく黒に近い念はあまり出していないとは思うが。ちなみに私はM氏の母親の背後に狐霊の存在を感じている。狐霊というと「そのような低級自然霊と縁を持ってはいけないのでは」と思う方もあろう。だが、物質世界を生きて行く上で狐霊の力が必要である場合もある。狐霊のなかには伏見稲荷大社の大神の下で修行し働いている自然霊もいる。このような狐霊を身近に感じた場合、私は心中で「ともに修行をしようね」と声をかけている。 心霊研究家の中には念の強化を推奨する人があるが、わたしはこれをお奨めしない。常に高次の神霊に思いを向けること。それが私のお奨めしたいことだ。霊的世界には「鏡の理」というものがある。他者から邪念、悪念を受けた場合、高級霊と感応する明るく澄んだ思いを持っていれば、鏡が光を反射するように、その念は相手に返り、自らが害される事はない。邪念、悪念を発した者は、自分が発した念で傷つき、このことによって自身の誤りに気づく。これが「鏡の理」だ。念力で勝負して人生を歩んできた人を私は何人か知っているが、一様にその末路は哀れである。常に高級神霊に心を向けて生きたい。それが私の切なる思いである。