二十二年前、十一歳だった娘の亜紀子は「ママ、ごめんね……」という言葉と九冊の日記帳を残し、この世を去りました。
三歳で白血病を発病し、人生の大半を闘病生活に費やした彼女の最期は、穏やかで安らかなものでした。
しかし私の胸の中に去来したのは、罪悪感以外の何ものでもありませんでした。
当時私は中学校の国語の教師をしていましたが、二十二年前といえば日本中の中学が荒れに荒れ、私の赴任先も例外ではありませんでした。
昼間、学校で生徒指導に奔走し、ヘトヘトになって帰宅すると、娘が一晩中、薬の副作用で嘔吐を繰り返す。
あるいは妻から「きょうは亜紀子が苦しそうで大変だった」と入院先での容態を聞かされる。
「俺はもうクタクタだ。一息つかせてくれ」
と心の中で叫んでいました。
そしてある日、妻にこう言ったのです。
「治療はおまえに任せる。俺は学校で一所懸命仕事をする。経済的に負担をかけないようにするから、任せておけ」
もっともらしく聞こえるでしょう。
しかし本心は「逃げ」でした。
彼女を失い、初めて治療に関して「見ざる・聞かざる」の態度を取り続けたことへの罪の意識が重く重く圧し掛かってきました。
なぜ、もっと一緒に病気と闘ってやらなかったのだろう。
俺は罪人だ……。
もういまさら遅いけれども、彼女の八年の闘病生活と向き合いたい。
その思いから、娘が残した九冊の日記帳に手を伸ばしたのでした。
「十二月二日(木)
今度の入院からはいろいろなことを学んだ気がします。
今までやったことのない検査もいろいろありました。
でも、つらかったけど全部そのことを乗りこえてやってきたこと、やってこれたことに感謝いたします。
これはほんとうに、神様が私にくれた一生なんだな、と思いました。
きっと本当にそうだなと思います。
もし、そうだとしたら、私は幸せだと思います。
「二月十日(木)
早く左手の血管が治りますようにお祈りいたします。
そして日記も長続きして、元気に食よくが出ますように。
また、いつも自分のことしか考えている子にしないで下さい。
点滴点滴の毎日で左手の血管が潰れ、文字は乱れていました。
それでも一所懸命書いたこの一文に十一年間の彼女の人生が象徴されているようで、
私にはとても印象に残りました。
あれは彼女が亡くなる数日前のことでした。
朝、妻に頼みごとをして仕事へ行きましたが、その日は検査や治療で忙しかったらしく、夕方私が病院に着いた時、まだ手つかずのまま残っていました。
「きょうは忙しくてできなかった」
と妻に言われ、一瞬ムッとした顔をしましたが、娘はそれを見て、
「ママやってあげて。私のことはいいから」
と言ったのです。
命が尽きるその時まで自分のことだけを考えている子ではありませんでした。
すべて読み終えた時、私は胸を打たれました。
普通に学校にも通いたかったでしょう。
こんなに苦しい闘病生活を送らなければならない運命を恨みたくもなったでしょう。
しかし日記には同じ病室の子どもたちを思いやる言葉や、苦しい治療に耐える強さをくださいという祈りの言葉、明日への希望の言葉、そんな強く美しい言葉ばかりが
記されているのです。
広い世の中から見れば、一人の少女の死に過ぎませんが、この日記から得る感動は親の贔屓目ではなく、誰もが同じ気持ちを抱くだろうと思いました。
私は彼女へ対する懺悔の気持ちと相まって、「娘の日記を世に送り出したい」と思い至りました。
そうして教職を辞して出版社を設立、娘が残した日記をまとめ出版したのです。
各マスメディアが取り上げてくださったおかげで反響を呼び、映画化もされました。
たくさんの激励のお手紙をいただき、それを励みに今日まで毎年一冊ずつ彼女が残した日記を出版し続けることができました。
もちろん、行き詰まりそうになったことはたくさんあります。
十一年前には映画の製作会社が倒産し、フィルムが紛失しかけたことがありました。
それをなんとか見つけ出し、財産をはたいて版権を買い取りました。
映画技師の資格を取り、平成五年からは自主上映会と同時に講演を行う形で全国を行脚しています。
人は私のことをただの「親ばか」だと思うかもしれません。
しかしこの二十二年間、私は娘の日記によって生かされてきました。
読者の方や講演先とのご縁をいただき、さらに
「感動した」
「これからもあっ子ちゃんのことを伝えてください」
という励ましの言葉をいただける。
それがいまの私の支えです。
娘の亜紀子は短くとも最期まで前向きに、
他の人を思いやって生き抜きました。
本当はもっと生きたかったはずですが、それは叶わなかった。
そんな女の子がいたことを、出版や講演を通して世に伝えることで、あたかも人間の命が弄ばれているかのような現代社会に対し、命の尊さを訴えたいと思っています。
先日、私の講演もついに百回目を迎えましたが、その会場は偶然にも娘が亡くなるまで通った小学校でした。
遥か後輩にあたる子どもたちが、「一日一日を大切に生きたい」という感想をくれました。
私の活動は世の一隅を照らすことしかできませんが、どんなことがあっても続けていかなければならないという気持ちを新たにしました。